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東京地方裁判所 昭和34年(ワ)7543号 判決

原告 財団法人研数学館

被告 東京研数学館長こと伊藤奉圭

主文

被告は予備校その他の教育業務につき「東京研数学館」の名称を使用してはならない。

訴訟費用は被告の負担とする。

事実

一、原告訴訟代理人は主文同旨の判決を求め、その請求原因及び被告の主張に対する反論として次のように述べた。

(一)  原告は肩書地において昭和一六年一二月財団法人設立以来「研数学館」なる名称のもとに上級学校入学志望者を対象とする入学補習教育の業務すなわちいわゆる予備校の業務を行い現在にいたるものである。由来「研数学館」なる名称は、明治三〇年数学者奥平浪太郎の創始にかかり、以来同人が原告肩書地において開設した数学塾に付して使用したものであるが、訴外片山鬼作は大正一〇年奥平からその業務を、校舎その他の設備及び「研数学館」の名称とともに承継して予備校の業務を経営して来たところ、大正一二年九月の関東大震災により校舎を焼失したので直ちに焼跡に校舎を建築し同年一一月授業を再開し継続した。さらに昭和四年一月同敷地上に鉄筋コンクリート地下一階地上四階建、延六一〇坪教室一〇室の本建築校舎を新築し、引き続き予備校の業務を行つて来たもので、昭和一六年法人設立とともに原告においてこれを継続し、昭和三四年三月には構内地に鉄筋コンクリート三階建延三三九坪、六教室の本建築校舎を増築し、ますます業務を拡張しつつある。しかして予傭校における「研数学館」の名称は創始者奥平の学識とすぐれた教授法により上級校入学のための補習教育における功績顕著であつて、その名声大いにあがり、これを承継した片山個人時代、原告設立後の法人時代を通じて、研数学館はその教職員の陣容と校舎教室その他の諸設備を改善充実し、大いに努力したのでその声価は同種業界に重きをなし、昭和三四年三月現在で在校生は二、四〇〇余人、法人設立以来の入学者の総数は実に一一万五、〇〇〇余人に及ぶものであり、明治三〇年創始以来六二年間の受講者数を通算すれば優に三〇万人以上と推定し得る。かかる長年月の歴史と多数の入学受講者を有する事実と不断の宣伝広告等により「研数学館」の存在と名称は教育界のみならず一般社会にも認識され、その信用と声価は厚くかつ顕著である。

(二)  被告は昭和三三年四月ごろから東京都千代田区神田富山町一〇番地の本校並びに昭和三四年四月ごろからは新宿区淀橋八二番地の第二教室において予備校の業務を行う者であるが、その名称を「東京研数学館」として使用し、その校舎、学則書、広告文書その他にもこの名称を表示して使用しているものである。

(三)  被告がその予備校の経営に使用する右「東京研数学館」の名称は原告の多年使用する「研数学館」の名称とはなはだしく類似するものである。すなわち両者名称においてその主要部分は「研数」の語にあり、この語は前述のとおり奥平の創始した類例なき新規語である。爾来六〇余年、世人は研数ときけば予備校を、予備校といえば研数を想起するにいたつている著名な名称である。この上に「東京」の文字を冠することは、両者の類否を決定する要因となるものではない。「東京」の語は明治以来わが首都の地名として一般的に使用されているものであり、東京地域内にある者がこれを特殊著名な名称に重ねたからといつてその本来の類似性を失うものではない。従つて両者は世人に混同誤認を生ぜしめるものであり、少くともそのおそれの存することは明白である。現に被告が予備校を開始して「東京研数学館」の名称を使用したため、これを原告の分校と誤解して話題とする者があり、被告の予備校に入学しようとする者が両者を混同して原告方に規則書の交付を請求した事例が多数あり、被告の予備校に勤務する教員の氏名を告げて原告方に電話呼出を求めるものまた数回に及ぶのである。しかのみならず原告は多年設備の充実、内容の向上に努力するとともに、新聞、雑誌、ラジオ、交通機関の内外及び街頭等において宣伝広告に努力し、かつ生徒募集要項の印刷物配付等、これらに支出した生徒募集費は相当多額に上るのであり、被告がその名称で業務を開始した年の前年である昭和三〇年度から昭和三三年度にわたり支出した金額だけでも昭和三〇年度約四二〇万円、昭和三一年度約五五〇万円、昭和三二年度約五七二万円、昭和三三年度約五八三万円であつて、この「研数学館」の名称による宣伝広告による利益は、類似名称を使用する被告において便乗的に利得する結果となるものである。

(四)  なんぴともその業務に使用する名称を自由に選択する権利を有するものである。しかしその選択した名称が他人のすでに使用している名称に類似し、その類似名称の使用が他の先使用者と同一性表示の混同を生じることにより先使用者の利益を害し、名称により特定の人格を認識しようとする第三者に混迷を与え、もしくはこれらの危険ある場合は、後に使用しようとする者の名称選択使用権の行使は制限せられ、その行使は公共の福祉に反する権利の濫用として民法第一条の禁止するところである。被告が予備校の業務に「東京研数学館」の名称を選択使用することは、すでに古くから「研数学館」の名称を予備校業務に使用する原告に不利益を与え、第三者に混迷を与えるものであり、正に右の場合に当るものであるから、被告の右名称の使用は禁止されるべきであり、原告はその直接の被害者として右類似名称の使用を廃止すべきことを請求する権利を有する。仮りにこれにより直接廃止を求め得ないとしても、原告は自己の名称につきいわゆる氏名権を有するものであり、少くともこの名称により法律上保護された利益を有するものであつて、被告の右名称使用は原告の右権利ないし利益を害するものであり、原告はその廃止を請求し得べきものである。仮りにこれによつてはなお差止を求め得ないとしても、本件においては商法の商号保護の規定及び不正競争防止法の規定が準用されるべきである。すなわち予備校その他の学校経営はいわゆる営業ではない。教育事業はもつぱら公共の福祉に奉仕すべきものであつて、利潤追及を目的とすべきではない。しかし私立学校は営利を目的とするものではないが、学校経営上の資源は官公立校とは異なり、学生生徒の月謝その他の収入に依存するものであり、設備の維持、拡張、充実に要する資源もまた同様である。従つてなるべく多数の学生生徒を迎えて収入を増加し維持する必要があり、そのため施設をととのえ、信用を重んじ、そのすぐれた特徴を社会に広く宣伝するものである。このため同種学校間に競争的現象を呈するのは自然の数といわねばならない。そしてこれを世人に認識させるにつきもつとも重要なのは学校の名称である。世人はその名称により特定校の存在を知り、これを選択する唯一の手がかりとするものである。商号に関する規定が直接適用されないとしても、これを準用ないし類推適用すべき理由は十分である。

(五)  被告は原告と被告との業務の同一性ないし類似性を否定している。しかし予備校すなわち上級校入学志望者のための補習教育を行う教育業務であることは両者同一であり、その性質を異にするものではない。同一教育施設内に、小学、中学、高校、大学の各科を併置する事例は多いのであるから、世人は両者を予備校の概念において認識し、両者の業務を混同することは必然である。また被告が将来その対象者の範囲を拡張して大学入学志望者を包含しないとは保障されるものではなく、そのおそれは存するとみるのが常識であろう。故にその主張のような対象者の相違は両者業務を区別する資料となるものではない。

(六)  被告は、昭和四年四月京城府に「京城研数学館」を創設し、爾来この名称を使用して補習教育に従事して来たと主張する。仮りにそうとしても、数学補習校としての「研数学館」は古く明治時代から存在し、教育界並びに一般社会に周知され、好評を博して来たものであり、被告も数学者として研数学館の存在と盛名を知らないはずはない。しかるに自ら補習校を創設するにあたり、あえて研数学館の名称を使用したのは、むしろ内地におけるこの名称を模倣し、これに付随する声価と信用とを利用しようとしたものと推認して誤りないであろう。被告が東京地域内に「東京研数学館」の名称使用を開始するにあたつても、同様の意図のもとにしたものと解するのが社会通念に合致するものである。

二、被告訴訟代理人は原告の請求を棄却する、訴訟費用は原告の負担とするとの判決を求め、答弁及び主張として次のとおり述ベた。

(一)  原告主張の事実中原告が肩書地においていわゆる予備校の業務を行つていること、被告が「東京研数学館」なる名称をもつて東京都千代田区神田富山町一〇番地の本校並びに新宿区淀橋八二番地の第二教室において補習教育の業務を行い、その校舎、学則書等にこの名称を表示していることは認めるが、被告が右名称を使用した日時及び業務の対象者の範囲は争う。原告と被告の名称がはなはだしく類似し従つて世人をして両者の混同誤認を生ぜしめ、もしくはそのおそれがあること、被告がその名称を使用することが原告に不利益を与え、第三者に混迷を与えるものであり、被告の名称使用が公共の福祉に反し権利濫用行為であることは否認する。原告が「研数学館」の名称をもつて広告宣伝につとめたこと、原告にその主張のような混同誤認の事例があつたことは知らない。

(二)  被告が「東京研数学館」なる名称をもつて本校を開設したのは昭和三一年一一月ごろであり、第二教室を開設したのは昭和三四年七月ごろである。被告は昭和四年四月朝鮮京城府新堂町三九八番地に「京城研数学館」を創設して館長となり、爾来敗戦帰国まで補習教育の業務に専念していたものであるが、終戦引揚後東京において同じ業務を再興するにいたつたので、頭に冠した地名を変更して「東京研数学館」と称しているのである。原告主張の明治時代に存した「研数学館」と昭和一六年に設立された財団法人たる原告とは明らかに人格を異にするものであり、被告が京城で業務をはじめたころには東京における数学補習校としては藤森良蔵主宰の日土講習会が全国的に盛名と信用を有したもので「研数学館」なる予備校は原告主張の如き盛大なものではなかつたのである。

(三)  原告と被告とは業務を異にしている。すなわち原告の予備校業務の対象者はもつぱら大学又は大学医学部の入学を志望する高校生、同卒業者、大学生等であつて、小学校、中学校の生徒は入学資格すらないのに反し、被告の業務の対象者はもつぱら小学校及び中学校の生徒に限定されており、大学又は大学医学部の入学を志望する高校生、同卒業者、大学生等は全然包含されていない。従つて両者の間には判然たる区別があり、必然的にその業務の実体も異なることはきわめて明らかであるから、その間競走も不正競走も起り得ず、もともと両者名称の異同を比較することは無意味である。

(四)  両者の名称は類似しない。原告の正規の名称は「財団法人研数学館」であり、単なる「研数学館」ではなく、これに対し被告の名称は「東京研数学館」であるから明らかに名称を異にし、その間一般世人をして混同誤認を生ぜしめる如き類似性はない。むしろ原告こそその正規の名称「財団法人研数学館」を用いるべきで、たんなる「研数学館」の表示は改めるべきであろう。原告は「研数」の語に特殊性があるかの如く強調するが、右は数学の研究ないし数理の研さんを意味する通常語であり、従つて数学の研究ないし教育を目的とする施設の名称に「研数」の語を使用する例は原被告にかぎられないのである。しかのみならず被告は毎年多額の経費を使用して宣伝広告につとめているが、それには名称の外に特に「東研」なる略称を明示し、かつ小中学生を対象とする旨を明らかにしているから、むしろ世人は被告の事業を「東研」と呼んで原告との区別を認識しているのが実情である。

(五)  なんびともその業務に使用する名称を自由に選択する権利を有することは原告所論のとおりである。従つて法律は特に定めた場合に該当しないかぎり自己の名称に類似した名称を他人が使用しているからといつて類似名称の使用者に対しその名称の使用を禁止する権利を認めてはいない。いわゆる氏名権なるものが権利として成法上認められるかどうかは問題であり、少くともそれが法律上保護される利益であるとしても、それによつて直ちに侵害者にその差止を請求し得るとはいえず、これについての規定であるドイツ民法第一二条もきわめて厳格な要件の下にその差止権を認めているにすぎない。かかる規定を有しないわが民法の下ではむしろこれを否定すべきであり、少くとも次の如き場合にのみ限定すべきものである。すなわち(1) 他人が氏名権者の氏名を僣称する場合(2) 映画、演劇、文芸等において架空的人物の氏名に氏名権者の氏名を使用し、氏名権者を諷刺と公然たる憎悪等にさらす場合(3) 政治的声明書等にその集団に属しない人の氏名を書き入れた場合(4) その他右に類する場合であつて、それによつて氏名権者の信用、名誉等が毀損される場合がこれである。しかるに本件はそのいずれにも該当しない。世上、同一または類似の氏名はきわめて多い。そのため彼此混同を生ずることもさけ難い。しかしそれだからといつて常に先使用者に後使用者の氏名使用を禁止する請求権を認めることの行きすぎであることは多言を要しないところである。原告は商法中商号保護に関する規定及び不正競走防止法の規定を準用すべき旨主張するが、これらの規定はみだりに非営業者に準用さるべきものではない。もし原告主張の如く社会公益的な業務に従事する者の名称が商号以上に厚く保護さるべきものならば当然そのような規定が制定されなければならないはずである。もともとこのような社会公益的な業務については営業上の競走というものは重要視せらるべきものではないのである。民法上の法人や学校法人の名称について商法第一九条の如き規定のないのはその故である。商業登記に関する規定は法人にも準用されているが、非訟事件手続法第一五八条はとくに準用規定から除外されているのである(非訟事件手続法第一二五条参照)。

三、立証として原告訴訟代理人は甲第一ないし第四号証、第五号証の一ないし四、第六、第七号証を提出し、証人佐々木憲護、秋穂英太郎、佐瀬恒、竹内孝三、勝海さく子、片山政男の各証言を援用し、乙第四号証の一、二の存在は認める、その余の乙号各証の成立は知らないと述べ、被告訴訟代理人は乙第一号証、第二号証の一ないし五、第三号証の一ないし三、第四、第五号証の各一、二を提出し、証人板谷康男、蒲原完、佐藤伸一、藤田昌吾の各証言及び被告本人尋問の結果を援用し、甲第一、第二号証の成立は認める、その余の甲号各証の成立は知らないと述べた。

理由

原告が肩書地において上級学校入学志望者を対象とする補習教育の業務すなわちいわゆる予備校の業務を行う者であることは被告の認めるところであり、証人佐々木憲護、同秋穂英太郎、同片山政男の各証言によれば「研数学館」の名称は明治三〇年数学者奥平浪太郎が創始した数学の私熟に用いたものをはじまりとするものであるが、その後片山鬼作(原告代表者)において右業務をその名称とともに承継し、いわゆる予備校として経営して来たものであること、その間大正一二年の震災により校舎を焼失した後はいちはやくこれを復興してその業務を継続し、昭和四年には地上四階地下一階の鉄筋コンクリート校舎を新築したこと、昭和一六年原告法人設立にあたりその名称中に右片山の使用して来た研数学館の名を入れ、片山自ら理事長となり、設立後原告は従前の業務を継承して「研数学館」の名称をもつて予備校業務を営み、昭和三四年にはさらに鉄筋コンクリート三階建校舎を増築し、現に教職員約五〇名、収容生徒数常時約四、〇〇〇人にのぼり、わが教育界とくに予備校教育界に一地歩を占め、その名称「研数学館」はこの方面において一般に知られたものであることを認めることができる。

一方被告が現にその肩書地において本校、並びに東京都新宿区淀橋八二番地の第二教室において「東京研数学館」なる名称をもつて補習教育の業務を行い、その校舎、学則書、広告文書等にその名称を使用していることは当事者間に争なく、被告本人尋問の結果によれば被告が右名称をもつて右の場所でその業務をはじめたのは昭和三一年一一月ごろ以来のことであり、現に教職員講師等三〇数名、生徒数八〇〇人余を擁していることが認められる。

原告は、被告の使用する右名称は原告の多年使用する名称とはなはだしく類似し、これを使用することによつて世人をして両者を混同誤認せしめ、原告の右名称による権利ないし利益を害するから、これが禁止を求めると主張する。よつて以下この点について順次検討する。

被告はまず原告とはその業務を異にするからそもそも名称類似の問題は起り得ないと主張する。原告の業務が大学及び大学医学部への入学を志望する高校生、同卒業生、大学生等を対象とする補習教育であることは弁論の全趣旨から明らかであるところ、被告は主として中学校及び高等学校への入学を志望する小学生及び中学生を対象とする補習教育であることは被告本人尋問の結果によつて明らかであるから、この面からのみ判断すれば両者業務の対象は判然と区別され、従つて業務内容もまた相違するものの如く見える。しかし両者はいずれも上級学校への入学志望者を対象とする補習教育を目的とするいわゆる予備校の業務であつて、学校については同一主体が小学、中学、高校、大学等上下の学校を併置経営することは世上その事例に乏しくないのみならず、被告本人尋問の結果によれば被告自身はつとに数学に興味を有し大正末期から旧制高等学校への入学志望者を対象とする予備校事業にたずさわり昭和四年以来は京城において自ら予備校を主宰し終戦にいたるまでほとんど半生をこの種予備校事業に費し、昭和三一年一一月上京してあらたに東京においてその業をはじめようとするにさいしても当初は大学入学志望者を対象としようとしたこと、現在でもまだその希望を捨ててはいないことを認めることができるから、被告としては現在の事業活動の施設又は態様に重要な変更を加えることなく、容易に大学入学志望者を対象とする補習教育を開始し得るものと認めるべきものである。従つて原告と被告とは本件において名称の類似を比較する限度においてはその業務内容を同一にするものと解するのが相当である。

次に両者の名称が類似することは多言を要しない。原告そのものの名称は財団法人研数学館であるがその経営する予備校(各種学校)の名称は研数学館であり、原告の名称自体にしてもそのうち財団法人はそれが財団たる法人であることを示すものに過ぎないからかくべつのものでなく、その同一性認識のための標識は研数学館なる語にあることはみやすいところである。これに対し被告の「東京研数学館」なる名称のうち東京はわが首都の名称で原被告ともその業務の本拠を東京におく以上かくべつの区別の標準となるものでなく、研数学館なる語が両者同一なることはその見るとおりである。この場合研数の語が数学の研究ないし数理の研さんを意味することは被告所論のとおりであるとしてもこれが現に通常の熟語として通用しているものとは必ずしも解しがたく、むしろ右の趣旨を表現するための造語とみるべきであるから、研数の語に特別他と区別すべきものがないといえない。なお被告は、その名称のほかとくに「東研」の略称を使用しているから世人はむしろ被告を東研として識別していると主張するが、被告本人尋問の結果により成立を認めるべき乙第三号証の一ないし三、成立に争ない乙第四号証の一、二の記載によれば、被告は東研の略称のほかこれにあわせて「東京研数学館」の名称を附記していることが明らかであるから、「東研」はあくまで略称であつてその正確な名称が東京研数学館であることは見る者に明らかであるというべきである。

しかして証人片山政男の証言により成立を認めるべき甲第六号証、証人勝海さく子の証言により成立を認めるべき甲第七号証の各記載に証人竹内孝三、勝海さく子、片山政男の各証言をあわせれば、被告がその名称を用いて補習教育の業務を開始して以来世人をして原告と被告とを混同誤認せしめること多く、あたかも原告があらたに小学生、中学生の補習教育をはじめたかの如く誤解せしめ、電話呼出、照会等々においてもその混同いちじるしいものがあること、原告は年々相当多額の広告、宣伝費を支出しているが、被告との混同誤認によつてそれらの成果の幾分を奪われよつてもつてその利益を害せられていることを認めることができる。

ひるがえつて考えるにおよそある業務に使用する名称は原則としてなんぴとにも自由にこれを選択することが許されているものというべきことは原被告所論のとおりである。しかしすでに一定地域においてある業務のため一定の名称を使用する者がある場合これにおくれて他の者が同一地域において同一業務のため先使用者の存することを知りながらあえて同一又は類似の名称を用い、ために世人をして両者の混同誤認を生ぜしめ、よつて先使用者の利益を害し、もしくは害するおそれがあるときは、かかる名称選択の自由はおのずから制限せられ、先使用者はこの者に対しその名称使用を止めるべきことを請求し得るものと解するのを相当とする。このことは氏名は個人を他から区別することを目的とする永続的な徴表のための言語上の標識であつて、それがわが成法上いわゆる氏名権として一の権利と認められるかどうかはしばらく別として少くとも法律上保護せられる利益であることは明らかであり、そのことは自然人の氏名についてと同様法人の名称についても認められるべきこと、商法が一定の要件のもとに商号の保護をはかり、不正競争防止法もまた他人の営業上の標識と同一又は類似のものを使用してこれと混同を生ぜしめる行為を禁止していること、そしていわゆる予備校なるものの業務が一般に営利を目的とするものないし営業的行為というべきでないことはいうまでもないが、他からの特別の補助ないし後援なくして自ら独立してこの業務を行うについてはその経済的側面においてはその収支計算の上に立つて経営される一の事業体とみるべきことは否定し得ないところであり、その事業体に用いられる名称はきわめて商号に類似するものがあること等によつて首肯せらるべきものである。いいかえればこれら法制の下においてはたんに営業上の活動についての商号の場合に止まらず、一定の事業を営む者がその事業に用いる名称についても、同様の条件の下にその名称使用の自由は制限せられるのであつて、それは窮局において社会生活において各人の享受する私的自由は他の主体のすでに法律上保護せられている権利ないし利益を害しない範囲に規整せられるという私法上の原則に帰せられるのである。この場合商法ないし不正競争防止法の直接関係しない分野においては、法はかかる名称使用の自由を保障していると解すべきものではない。被告の指摘する民法上の法人の名称についての非訟事件手続法第一二五条がとくにその第一五八条の準用を除外しているのはたんにこれら法人の名称は直接商号に関する商法第一九条の対象でないことに相応するものに過ぎず、これによつて前記解釈を左右するものではないのである。

被告はすでに昭和四年以来京城において自ら「京城研数学館」なる名称をもつて予備校業務を営んで来たものであり、昭和三一年東京においてこれを再開するに際し京城を東京に改めて「東京研数学館」としたに過ぎないと主張するが、被告が当初昭和四年「京城研数学館」なる名称を選んだとき東京にはすでにこれより早く数学者奥平浪太郎の創始した研数学館がありその後同様予備校として存在したことの事実を知らなかつたとする被告本人の供述は、同供述により認めるべき被告は大正一一年愛知県立第二中学校四年修了後直ちに旧第四高等学校に入学し、大正一五年卒業と同時に京都帝国大学に入学し、そのころからつとに数学に興味を有し、京都大学在学中にも関西予備校、平安予備校等で数学を教えていたこと、京城で予備校を経営し多くの子弟を内地の(旧)高等学校その他の上級学校に送つていたこと等から考えて必ずしも疑問なしとしないけれども、それはそれとしても、少くとも被告が戦後朝鮮から引き揚げ、昭和三一年上京して上級学校入学志望者のための補習教育の事業を営むにさいしては、原告がすでに肩書地において研数学館なる名称をもつて予備校を経営していたことは十分知悉していたものであることは右被告本人の供述から明らかである。

従つて研数学館の名称が従来被告が京城において使用して来たものであつても、それを東京において使用するについてはすでに先使用者においてこれを使用している以上その使用の自由はおのずから制限されるべきことはあらたに自己の名称を選ぶ場合と異なるものではない。それをあえて使用するのは不正の競争の目的をもつてするものと推認せられても止むを得ないものというべきである。いやしくも被告にして自己の業務に独立と誇りを有するならば、いさぎよく他人のすでに同種業務に使用する名称との関連を絶つべきであつた。

はたしてしからば被告は原告に対しその予備校その他の教育業務につき直ちにその「東京研数学館」なる名称の使用を廃止する義務があるものというべく、これを求める原告の本訴請求は理由がある。よつてこれを認容し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 浅沼武)

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